僕は今日も生きている

ぼんやりと感じたことを綴ります

貯蓄のない人が増えているらしいです。少し前にこんなブログ記事が話題になりました。

cards.hateblo.jphttp://cards.hateblo.jp/entry/tanshinsetai-chokin-zandaka2016/

 これって非常に危険な状態を表すデータです。このままだと単身世帯の生活保護はますます上がる一方でしょう。2人に1人は蓄えがなく、その割合は若くなるに連れて上がります。確かに若いときほど後先考えて浪費に走りがちでしょうがそれでも行き過ぎの感があります。40代や50代でも貯金0の人が約半数というのは問題ではないでしょうか?日本の将来が心配です。

直感的にご理解頂けると思いますが、貯金が無かったら老後は身内や生活保護等の社会保障に頼らなくては生きていけません。老後は年金があるとは言えそれだけで生活をしようとしてもなかなか厳しいものがあります。

そもそも年金というのは貯金を前提とした仕組みです。「年金だけでは生活できない」とよく言いますが、年金というのはあくまで「生活の足し」にするためのお金なのです。そういう制度設計なのです。加えて国民年金は定年の心配なく働いて稼げることも前提にしています。それなのに貯金が出来ないとなると、年を取ってリタイアし、収入が途絶えるとたちまち大貧困に陥ります。単身世帯の半分がその予備軍というのが今回のデータが示す驚くべき事実です。

これで良いのか、日本。ダメなんだけど景気が良くならないことにはどうしようもないし、良くしようと思っても簡単に良くなるものでもないし。。。貯金がなくてもなんとかなる仕組みを作ることが出来れば良いのでしょうけどやはり夢物語なのでしょうか?

気になったので二人以上世帯位の貯蓄状況も調べてみました。ソースは冒頭に挙げたブログと同じです。

時系列データ(昭和38年から平成28年まで) ― 家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査] | 知るぽると

このページからExcelファイルをダウンロードしてグラフ化してみました。

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グラフ:二人以上世帯の貯蓄状況

 

 意外なことに10年前と比べて不変、もしくは微増と言ったところです。ちょっと安心したような気もします。

 問題は1人世帯にあるようなのですが私にはちょっと理由や背景が分かりません。とにかく単身世帯の半分は「隠れ貧困」とでも言うべき状態にあるようです。繰り返しになるのですがこのままだと生活保護受給者になりやすい層です。数十年後の日本は、今より暗い世の中になるのではないかと独り気をもんでいます。

 

バカだと思われたくないという気持ち

バカだと思われないように必死で仕事を頑張っている。

 

この4月からグループ内の他企業に異動した。僕のことを評価してくださった方が引っ張ってくれたし、社長とも元々面識があり僕のことを「人当たりの良いやつ」と思ってくれている。だから非常に気が楽だ。それでも多少は神経を使う。バカだと思われるのがとにかく恐い。

 

新しい職場ではとにかくExcelをよく使う。給与計算などがシステム化されておらず、それを頑張ってExcelで集計しているのだ。僕はこれまでこの手の業務に携わったことがないのでVLOOKUP関数やピボットテーブルなど、基礎的な機能さえ自在に使いこなすことが出来ない。少し情けないような恥ずかしいような気分になる。

 

どうして僕らはバカだと思われたくないのだろうか?やはり知性が「年収≒生きる力」に直結すると感じているからだろう。力はあった方が絶対にカッコイイ。特に僕は世の中の平均的な人間よりも知性を重視する。それだけにバカだと思われるのは恐い。

 

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最近個人主催で読書会というのを開いている。数人で集まって好きな本をお互いに紹介し合うだけのお気楽な会だ。自分の好きな本を語るのは楽しいし、人のお薦めを聞くのも参考になる。紹介する本のジャンルは何でもOKで、純文学を持ってくる人もいればマンガを熱く語る方もいる。出来るだけ多くの方に参加してもらえるお気楽な会にしていきたい。

 

その読書会のことで、会社の同僚女性が僕に話しかけてきた。「ボクイキ君、最近面白そうな会をやってるよね。私も国文科だったし本が好きなの。太宰治が特に好きで。」ニコニコしながら語る彼女に僕はウキウキした。周囲は「○○さんがそんな事を言っているとなんだか頭が良さそうに見える(笑)」などという反応だった。そしてその反応が彼女をまた喜ばせた。

 

僕は読書会に彼女を誘ってみたが、途端に彼女の表情が曇った。何という言葉を使ったのかは覚えていないけれども、しどろもどろになりながら断られた。恐らく彼女はバカだと思われるのが恐いのでは、と密かに感じていた。

 

読書会というと如何にも頭の良さそうな人の集まる場所だと彼女はきっと思い込んでいるのだろう。ではなぜそう思い込んだのか?それは僕がそういう雰囲気を出してしまったからだと思う。彼女のような層がたくさん参加してくれたら僕にとって読書会は成功に近づいていると言える。

 

僕もまだまだだなあ。

 

男が幸せになるためには女も幸せにならないといけないという当たり前のこと

僕は今のところ独り者だが周囲には子育てをしている女性が多くいる。「時間がない」、「子供を預かってくれる人がいない」など、皆一様に口を揃えて不満をこぼす。育児の苦労を何とか和らげたいという切なる願いを感じている。そんな中、先日このような記事を目にして気になった。

 

togetter.com

 

どこかの企業が自動販売機で紙おむつを販売し始めたそうで、きっかけはイクメンの提案だそうだ。けれどもそれは以前から女性達、ママさん達がずっと声を上げては批判されていたことらしい。女性が言うと甘えだとか需要がないと批判され、男性が言うとあっさり実現する。理不尽だけどこれが2017年の日本の現状だ。

 

ではなぜそうなるのだろうか?「男は女より優秀だと思っている」人が多いから、と考えるのが自然だろう。同じ意見を言ったとしても、出来ない人の意見は通りにくいが出来る人の意見には皆耳を傾けるものだ。年配の方に聞くと、30~40年くらい前の日本では、取引先に電話をして相手が女性だと、「男の人はいませんか?」と平気で言ったそうだ。流石に今時そんなことを堂々と口にする人はいないが、本音もしくは深層心理ではきっとそう思っているのだろう。

 

以下はアメリカでの事例だが日本でもきっと変わらないと思う。

 

www.huffingtonpost.jp

 

人材紹介の仕事をしている男性と女性がいて、サービス利用者とは基本的にはメールでしかやり取りしない。その男性社員は女性社員よりテキパキと仕事をこなしていて優秀だと思われていた。利用者に対して、男性社員は女性社員よりも適切なアドバイスをする事が出来ている、そう考えていた。けれども両者が名前を入れ替えて利用者に接すると仕事のパフォーマンスが入れ替わったとのこと。利用者は男のアドバイスは受け入れるが女のアドバイスは拒絶するのだ。

 

私は以前社内の情報システム部門にいた。社員の使うPCやその裏側のITシステム(ネットワークやサーバー等)を管理する部門だ。メーカーやITベンダーから営業電話がよくあるのだが、女性上司がたまにキレていた。責任者・担当者と話したいと言われて彼女が電話に変わると「あれ、ご担当の方をお願いしたいのですが・・・」と言われることがあるらしい。女という時点で技術者であることを否定されるのだ。お前は技術の仕事をしていないと決めつけられるのだ。

 

言うまでもなく力仕事であれば女性より男性の方が平均的に有能であろう。しかし仕事全般において女性が劣っているということは恐らくない。営業職、事務職などをしているのであれば筋力で勝負しているわけではない。それでも体が大きく腕力が強いと有能に思えてしまうのだろうか。

 

「思えてしまう」こと自体は本能なので恐らく仕方がない。この「思えてしまう」現象をGoogleでは「無意識のバイアス」と呼び、これを排除するための研修を行っている。

 

gigazine.net

 

おむつの自販機問題で言えば

 

1.男が言ったか女が言ったとかそんなことは関係ない、問題は言った内容だ

2.本当に自販機で販売すると需要があるか、判断する材料を集めろ

3.日頃から色々な立場の色々な意見を聞け、交流しろ

4.多数の意見、男女の意見を意志決定に反映させろ

 

となる。これが難しいことは誰にでも分かる。難しいからこそ研修会まで開いて社員に教育しているのだ。そして「思えてしまう」を排除することが利益につながるとGoogleは考えている。

 

男女差別の根底には女性は男性よりも劣っているという考えがあるのだろう。しかしその根っこを疑う気持ちは常に持ち続けた方が良い。理不尽な事は良くないという倫理的な問題もあるが、女が幸せにならないと男も幸せになれない。人は幸せを共有することで幸せになれると僕は思っている。

 

あんな人にはなりたくない

このブログを始める理由というのは色々あるのだけれど、大きなきっかけは文章を褒められたことだと思う。相手は誰でも知っている外資系ホテルの営業部長。飲み屋で知り合った方だがとにかく元気がよく、話し方にも勢いがある。僕はどちらかというと地味な人間だからそういう方を見るとその性格をうらやましく思う。自分に無いものを持っている人間は魅力的だ。

 

その方が、僕がFacebookに上げた投稿を読んで、「ボクイキさんはすごく頭の良さそうな文章書くね!」と僕にとって驚きの言葉を放った。まず最初は飲み仲間と皆で一緒にいるときに、そして次は奥様やお子様たちと居るときに、合わせて2回も言ってくれた。だからきっと本音なのだと思う。なんだか信じられなかったが嬉しくて、2回も同じことを聞いてしまった。

 

僕:具体的にどの投稿でそう思ったのですか?

部長:どれ、っていうのじゃないけど全体的に

 

信じたい気持ちと信じられない気持ちが同居していた。前者は「自分を認めて欲しい」という純粋で単純な気持ちだ。そして素直な気持ちだ。後者は「自分が頭が良くて文章がうまいなんて意味が分からない」という気持ちであろう。褒められても素直に信じられない、信じたくない、ひねくれた気持ちとも言える。

 

文章については今でもコンプレックスがある。学校で書かされた作文の悪影響が大きいと今でも感じている。あの頃は一文字でも多く稼ぐことに必死で原稿用紙を睨みつけていた。段落を変えるときはいつも行の一番上のマスで文章を終わらせようと無理矢理文章を構成していた。話したくない相手から逃げるときと同じ気分なのかもしれない。

 

そんな僕が今、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願いつつ、こうして文章を書いている。大人になっても褒められることで人の行動は変わりうる。人から褒められることによって自分を認めることが出来るようになる。

 

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ここ数年、本好きの市民として地元自治体などと一緒に読書や文学に関する活動を行っている。その活動の1つとして地元ゆかりの文学作品をステージの上で朗読するというイベントに携わった。参加資格は特に設けておらず、言ってみればNHKのど自慢の朗読版だ。会場は駅の地下街で観客も通りすがりの方が少なくない。

 

参加者の中で大人に混じって一人だけ小学3年生の女の子がエントリーしていた。そのきっかけというのが実に分かりやすく、当日ステージの上で話してくれた。「学校の朗読で、先生が褒めてくれたからです!」

 

分かりやすい。実に分かりやすい理由だ。

 

彼女が朗読した作品は主人公が小学生の児童文学だ。母親に不満を訴える場面を読み上げてくれたのだが、主人公の切なさがひしひしと伝わってきた。同年代の彼女だからこそ表現出来るリアリティーが感じられた。

 

ステージを降りた彼女を目立たないようこっそりと小説の作者が迎えた。全国区で売れっ子の作家なのだが、地元在住なのでこっそりと会場に来てくれていたのだ。作家としても、自分の作品を晴れの舞台で朗読してくれる女の子は可愛いのだろう。何を話していたのかは分からないけれども、賑やかな会場の片隅で幸せそうに話している二人を見ていて僕は幸せだと思った。

 

朗読イベント全体の講評は日本朗読協会だかナンダカの偉い方が務めて下さった。本当に偉い方で素人が気楽に話しかけることの出来る相手ではないらしい。けれどもその講評にはガッカリした。自分の喋りたいこと(朗読の技術に関する専門技法)だけを延々と喋り、聞く方はひどく退屈させられた。会場の人達は普段朗読のことなど気にも留めない素人たちだというのに。

 

キラキラと輝かんばかりの華やかな会場の雰囲気が次第に重苦しくなり、観客が一人二人と席を離れ始めた。

 

参加者の朗読愛好家が冗談めかして言っていたが、その偉い人は、「普段はキレイな女性達に囲まれていてなかなかお近づきになれないんです。そういう方々を『喜び組』って言う人もいるんですけど」だそうだ。

 

なるほどね、普段は将軍様なのだ。彼がどんなにつまらないことを言っても周囲は興味深げに愛敬をふりまくのだろう。権力者が必ずしも悪いわけではないのだが、ああいう風にはなりたくないと思った。「褒めて欲しい!」という態度をストレートにあらわす女の子をどうしてスルー出来るのだろうか?そして大人の参加者だって皆「偉い人」に褒めてもらいたいはずだ。

 

売れっ子作家の優しさに救われる思いだった。