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僕は今日も生きている

ぼんやりと感じたことを綴ります

あんな人にはなりたくない

このブログを始める理由というのは色々あるのだけれど、大きなきっかけは文章を褒められたことだと思う。相手は誰でも知っている外資系ホテルの営業部長。飲み屋で知り合った方だがとにかく元気がよく、話し方にも勢いがある。僕はどちらかというと地味な人間だからそういう方を見るとその性格をうらやましく思う。自分に無いものを持っている人間は魅力的だ。

 

その方が、僕がFacebookに上げた投稿を読んで、「ボクイキさんはすごく頭の良さそうな文章書くね!」と僕にとって驚きの言葉を放った。まず最初は飲み仲間と皆で一緒にいるときに、そして次は奥様やお子様たちと居るときに、合わせて2回も言ってくれた。だからきっと本音なのだと思う。なんだか信じられなかったが嬉しくて、2回も同じことを聞いてしまった。

 

僕:具体的にどの投稿でそう思ったのですか?

部長:どれ、っていうのじゃないけど全体的に

 

信じたい気持ちと信じられない気持ちが同居していた。前者は「自分を認めて欲しい」という純粋で単純な気持ちだ。そして素直な気持ちだ。後者は「自分が頭が良くて文章がうまいなんて意味が分からない」という気持ちであろう。褒められても素直に信じられない、信じたくない、ひねくれた気持ちとも言える。

 

文章については今でもコンプレックスがある。学校で書かされた作文の悪影響が大きいと今でも感じている。あの頃は一文字でも多く稼ぐことに必死で原稿用紙を睨みつけていた。段落を変えるときはいつも行の一番上のマスで文章を終わらせようと無理矢理文章を構成していた。話したくない相手から逃げるときと同じ気分なのかもしれない。

 

そんな僕が今、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願いつつ、こうして文章を書いている。大人になっても褒められることで人の行動は変わりうる。人から褒められることによって自分を認めることが出来るようになる。

 

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ここ数年、本好きの市民として地元自治体などと一緒に読書や文学に関する活動を行っている。その活動の1つとして地元ゆかりの文学作品をステージの上で朗読するというイベントに携わった。参加資格は特に設けておらず、言ってみればNHKのど自慢の朗読版だ。会場は駅の地下街で観客も通りすがりの方が少なくない。

 

参加者の中で大人に混じって一人だけ小学3年生の女の子がエントリーしていた。そのきっかけというのが実に分かりやすく、当日ステージの上で話してくれた。「学校の朗読で、先生が褒めてくれたからです!」

 

分かりやすい。実に分かりやすい理由だ。

 

彼女が朗読した作品は主人公が小学生の児童文学だ。母親に不満を訴える場面を読み上げてくれたのだが、主人公の切なさがひしひしと伝わってきた。同年代の彼女だからこそ表現出来るリアリティーが感じられた。

 

ステージを降りた彼女を目立たないようこっそりと小説の作者が迎えた。全国区で売れっ子の作家なのだが、地元在住なのでこっそりと会場に来てくれていたのだ。作家としても、自分の作品を晴れの舞台で朗読してくれる女の子は可愛いのだろう。何を話していたのかは分からないけれども、賑やかな会場の片隅で幸せそうに話している二人を見ていて僕は幸せだと思った。

 

朗読イベント全体の講評は日本朗読協会だかナンダカの偉い方が務めて下さった。本当に偉い方で素人が気楽に話しかけることの出来る相手ではないらしい。けれどもその講評にはガッカリした。自分の喋りたいこと(朗読の技術に関する専門技法)だけを延々と喋り、聞く方はひどく退屈させられた。会場の人達は普段朗読のことなど気にも留めない素人たちだというのに。

 

キラキラと輝かんばかりの華やかな会場の雰囲気が次第に重苦しくなり、観客が一人二人と席を離れ始めた。

 

参加者の朗読愛好家が冗談めかして言っていたが、その偉い人は、「普段はキレイな女性達に囲まれていてなかなかお近づきになれないんです。そういう方々を『喜び組』って言う人もいるんですけど」だそうだ。

 

なるほどね、普段は将軍様なのだ。彼がどんなにつまらないことを言っても周囲は興味深げに愛敬をふりまくのだろう。権力者が必ずしも悪いわけではないのだが、ああいう風にはなりたくないと思った。「褒めて欲しい!」という態度をストレートにあらわす女の子をどうしてスルー出来るのだろうか?そして大人の参加者だって皆「偉い人」に褒めてもらいたいはずだ。

 

売れっ子作家の優しさに救われる思いだった。