僕は今日も生きている

ぼんやりと感じたことを綴ります

思いやりとか気遣いとか

先日ある方と食事をした。仮にAさんとする。Aさんにお会いするのは2度めで、とても楽しみにしていた。

 

出てきた料理を早速取り分けたところで驚かれた。そのような気遣いは不要だと言う。マイペースを好む方だとは思っていたのだが、かえって窮屈な思いをさせてしまったようだ。「いつもそういう風にしているのですか?」と聞かれたときは何だか責められているような気がして少々戸惑った。

 

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僕は「気遣いのできる優しい人」と思われることもあるが、一方で「人の目ばかり気にしている卑屈な人」という印象を与えてしまうこともあるようだ。実際昔はそういう側面がなかったわけではない。学生時代は自分に自信がなく、他人の凄さに恐れ入るばかりだった。

 

いつ頃から変わったのだろうか?あるいは未だに変わっていないのだろうか?

 

今でも僕は僕以外の人のことを凄いと思っている。みんな僕には出来ないことが出来る。例えば料理や工作の出来る人は凄いと思う。実用的な能力は人間の生活の基礎だ。

 

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ある人に言われて「そう思うことにした」ことがある。仮にその方をBさんとする。Bさんともその時お会いするのが2度めだったのだが、随分とざっくばらんと語り合う事が出来た。互いが互いを同類とみなし、信頼し合うことが出来たからだと思う。ちなみにBさんともその時お会いするのが2度め。その時に言われた言葉が忘れられない。


僕のことを「遠慮しすぎて結局何も出来ない人だと思っていた」らしい。けれども話しているうちに全然おかしなところがなくてそれが「誤解」だと気付いたそうだ。だからか僕に子供がいないことに驚き、そして結婚していないことに更に驚き、彼女がいないことが信じられず、しかも困っていると伝えたら不思議そうな顔をしていた。

それが「誤解」じゃないのかどうかは僕には分からないのだけど、聞いていて心地の良い話なので希望を込めてそういうことにして信じている。


Bさんは、みんなでいる時につまらなそうにしている人がいると自分もつまらないと感じる種類の人間だ。皆が楽しいと感じている状態が心地よい。だからこそ人に気を遣うという。僕も同じだ。

 

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そんなことを考えていたら昨日別の意味で共感の出来る方と出会った。彼はまだ(たぶん)若い男で、人間ではなく飼い犬だ。やたらと人のことが好きな子で、僕にも飛びつかんばかりの勢いで接してくる。そのくせ、僕が軽く拳を握ってそっと鼻先に突き出すと、恐る恐る匂いをかいでは吠え立てる。好きなのにうまく好きって言えないようだ。僕以外の人にも行き交う人々に興味を示すのだがなぜか近づくと怯えたように唸り声を上げてしまう。


コミュニケーションて難しいよね。だからこそ僕は彼に対して親近感を抱かずにいられなかった。